覆面座談会

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事務局
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本日は暑い中、ご苦労様です。さっそく千金堂の今回のプロポーザルコンペをテーマに、日ごろ、住宅の設計も含めて実務に励んでおられる建築家の皆さんに、忌憚ないご意見、時代認識などをお聞かせいただこうと思います。

まず最初に、議論のきっかけとして、プロポーザルコンペのお題について、ご意見を伺いたい。

この「○○のある家、○○のない家」というテーマで考えていただくという設定の前提として、現在の社会、また、住宅や生活をめぐる諸関係が、大きく転換期を迎えた、あるいは転換点が露出しはじめた…。というような、主催者側の問題意識があるのですが、そのあたりについてはいかがでしょうか?

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建築家A ウサギ男
建築家A
(以下ウサギ男)

私は、今年30代後半にさしかからんとするのですが、アトリエ事務所からの独立を果たした10年近く前は、言葉になりづらいですが「美しいもの」というような暗黙のイメージが、今よりは明確にあったような気がしています。そのイメージの実現のために、建築基準法その他の社会的ルールや技術的なテクニックなどを懸命に習熟するということに、エネルギーの大半を使ってきました。

それが、新建築などの建築雑誌以外に、一般誌に「デザイン住宅特集」が取り上げられ始め、その後"CASA BURUTUS"や"I'm HOME"など、いわゆる「デザインされた住宅」とか「ライフスタイル」などという言葉が、見る見るうちに増殖しはじめて、なんか僕の世代の建築家/設計者は、すごいやりにくくなっちゃった…というのが素直な感想ですね。真っ向から反対!じゃないけど、何か違和感があるような心理状態のまま、仕事をしてきた感があります。

このコンペの募集要項の基調説明のなかにも、「記号の増殖」というテーマ設定があって、そのあたりについて、私はリアルな実感を持っているタイプかもしれません。ただ、その違和感の正体が何なのか?については、自分の正体も含めて、あまり真剣に考える時間的余裕もなかったかもしれない。その意味ではこのようなコンペもいい機会なんじゃないかと思います。

建築家B ウサギ女
建築家B
(以下ウサギ女)

ウサギ男さんがおっしゃっていることは、わたしも実感があります。その反面、それまでの建築雑誌や建築家という業界をとりまく雰囲気が、あまりにもアカデミックで、ある意味「啓蒙的」というか「説教臭ーい。」感じがありました。建築メディアの多様化で、その説教臭い雰囲気が、すこし緩和されたということは、私にとってはむしろうれしいことでした。建築メディアの多様化は、女性の私にはイヤなことばかりではない気がしています。

事務局
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一般誌のデザイン住宅ブームは、インテリアというか家具ブームと一体になったムーブメントでしたよね。

建築家B ウサギ女
ウサギ女

そうそう。最初はコルビジェとかペリアンとか、モダニズムですっ!みたいな、やっぱりちょっと説教臭かったけど、そのうちイームズチェアーがカフェの椅子の定番になりだしたあたりから、いい感じになってきた。生活が楽しくなってきたとは言えるんじゃないかな?勉強臭くない…というか。

その後、北欧家具的なアースカラーが生活に取り入れられるのが、私にはとてもうれしいことでした。あんまり派手なのもどうかとは思うので、いい傾向なんじゃないかと。

一般誌や、デザイン建築雑誌は、やっぱりファッションとかモードというものを建築の世界に取り入れるという意味では画期的な転機だったんじゃないかな?

建築家C ウマ男
建築家C
(以下ウマ男)

建築や住宅のファッション化というそのこと自体が、ここでいう「記号の増殖」ということと深い関係があるんじゃないかな。生活にいろんなバリエーションができること自体が悪いというわけじゃないけど、たとえば、モードって、常に今年はこれ、これが今、新しい!っていう具合に煽っていくじゃないですか。でも特に住宅の設計って、むしろ変わらないものは何か?を抽出していく作業のような気がしているんです。その大事な部分が年々過小評価されていくような感覚があります。建築メディアの悪意だと言っているんじゃなくて、北欧のリバイバルなんか、むしろ良心的で、いい傾向なんだけれども、次はイタリア、次はフランス。ちょっと戻ってまたバウハウスが新しいみたいな取り上げ方。これは近代以降の社会の宿命なのかもしれないけど、そのサイクルというか「記号の増殖」は、辛いものがあるよね。

建築家A ウサギ男
ウサギ男

その感覚は、僕も同感です。今年はこれが新しい!つまり「目新しい」ものをいつも鵜の目鷹の目で探している。そういえば今気がついたけど、「もうそれは、古い」と言われるのって、やっぱり怖いからね…。だから僕が感じているのは、「デザイン」とか「美しいもの」という重みを伴った感覚が、すっかり表層的な軽い感じになっていくようなイメージ。どしっと深く考えることがないんですよ。さらにウマ男さんのいうことをぼくの感覚で言うと、たとえば、これは「変わらないもの」「普遍的なもの」というものを表現すると、今度は「いま、普遍性が新しい」みたいに取り込んでいってしまう。これがウマ男さんが増殖と言っている感覚なんじゃないかという気がします。きりがない。

建築家C ウマ男
ウマ男

そうそう。きりなく取り込まれていく感覚。たとえばキティーちゃんがついたマグカップが発売になって、「かわいい」という記号が商品化される。それが「古くなった」ころ、何も書いていない純白のマグカップが、結果的に「シンプルデザイン」という記号になる。これって結果的で、相対的なことなんだけど、さも「デザイン」であるかのような、無印良品というブランド記号になっちゃう。

事務局
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その意味では、たとえばミニマリズムってどう思いますか?

建築家A ウサギ男
ウサギ男

身体感覚をともなった、つまり生活の感覚としてのミニマルみたいなものは信じるに値すると思うのですが、やっぱり記号としてのミニマリズムという相対的なるものが、モードとして周期的にリフレーンしているだけのような印象を持っています。そんなサイクルの中からの出口は何かを考える時期に来ているのかもしれない。私なりに感じることは、結局、何かを表現することって、ある種の「覚悟」というか自分の生活をも律する感覚が必要なのかもしれませんね。

建築家C ウマ男
ウマ男

とある有名建築家が、「建築にとっての新たな表現と本当に言えるものは、何年に一度しか現れない」と言ってますよね。そのうえで、建築家は一握りの「新しいものを造る建築家」とその他大多数の「編集する建築家」に分類しています。ある種の前衛意識というか、エリート意識というか、それ自体、非常に議論のあるところですが、その有名建築家の表現を借りるならば、「記号」を編集する設計行為に終始するのは、建築家側の堕落であるということにもなるのかもしれないです。実際、その有名建築家は、若手建築家に対してそのように批判的檄を飛ばしています。社会の変化や記号化の増殖を論じることが、自己弁護になるという苦しいパラドックス。

それも案外、僕たちが社会的なことを思考の対象としない傾向を助長しているのかもしれませんね。

建築家B ウサギ女
ウサギ女

私は、その有名建築家の分類には違和感があります。世界初のことを大発明するだけが、建築じゃないと思います。だいいち、「私は新しいものを作りえた」という自負というか自信そのものが、いかがわしくないですか?何のために何が「新しい」のか?それが問題かも。現代美術なんかの世界では、むしろ新しい表現などというものはすでにないということで、「シュミレーショニズム」という考え方が出てきて、過去の表現形式のコラージュのような作品が主流になっているとの話も聞きます。音楽の世界ではジョン・ライドンが「ロックは死んだ」と言ってるんだし、それも随分前に。「編集する建築家」って、堕落の産物なのかしら?

建築家A ウサギ男
ウサギ男

先ほどウマ男さんが言った、有名建築家の檄文的発言などを聞くと、「新たな表現」という強迫観念が、自分のなかで炸裂するのは否めませんね。ウーン。でもウサギ女さんが言うように、そろそろ、「新しさ」という強迫観念の呪縛から、特に住宅の設計は自由になってもいいんじゃないかな。編集する建築家でもいいような気がする。むしろその編集方針を表現と考えたいですよね。とくに、近代とかモダニズムに関する歴史的解釈を自分なりにしっかりして、自分の編集方針に取り入れていきたい気がする。

建築家C ウマ男
ウマ男

世界同時不況って、自分たちの同時代のことだから、凄いことに実は直面しているわけですよね。歴史の教科書に1ページ割かれるような。案外そんな実感がなくて、今日も焼鳥屋で一杯飲もうとか思っているけど。この歴史的出来事とその実感なさのギャップはちょっと怖いです。世界恐慌から第二次大戦に進んでいくプロセスと同時代に生まれたモダニズム建築の位置づけを、私も自分なりに考えなおしてみたいと思っています。ウサギ女さんには、「勉強臭い」と言われそうですが(笑)やっぱりその当時も、実感なくどんどん戦争になっていったんだろうなという想像が働きますよね。僕らが生きている現代はむしろ、「ぬるま湯」のようでありながら歴史的転換や、悲惨な出来事が一方で進行しているような社会。突然地下鉄サリンなんか起こったりするわけでしょ。建築設計をする自分のポジショニングが、なかなかわからないのが実感です。むしろ今日の座談会でいろいろお話するうちに、建築家のポジショニングについての問題意識が芽生えてきました。

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事務局
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先ほど、住宅の設計に関してはとくに、「編集する建築家」という位置づけを見直すという観点もありうるのではという見解がありましたが、建築家の作家性というテーマについてはどうでしょう?

建築家C ウマ男
ウマ男

モダンということを考えたときに、その作家性という話については、2種類の観点が浮かんできます。ひとつはモダンの定義を忠実になぞったときに浮上する、「複製技術」としての建築。つまり、規格化と量産という観点です。その中では、当然作家性は埋没していくわけで、技術はむしろ良質な規格を作りだすことに寄与するということになります。一方で、たとえば戦前の芥川賞をつくった菊池寛の発想のように、大衆化のシンボルとしての作家性という観点もあります。スターをつくって雑誌を売る。作家の顔写真は、重要な販売ツールであった。これによって文庫本や文学全集も大衆化が可能になったのですから。「作家性」の演出もきわめてモダンな出来事です。先ほどのテーマの「記号」ということにも最終的には収斂していくのかもしれません。「編集する建築家」は、良質なる規格に、広い意味での「技術」を提供する主体であるのかもしれない。あまり今まで考えたことがなかったけど。

建築家B ウサギ女
ウサギ女

最近は、ベストセラー作家でもあまり顔を知らない場合が多いです。売り方が変わったんですね。文学は。そういえば、確かに昔の作家の顔は、大体イメージできるわ。ウーン。だったら建築には、作家性がだんだん必要ではなくなったのかな。案外私たちの世代が、その作家性神話につられて建築学科に入っちゃった最後の方の世代なのかも。(笑)

建築家A ウサギ男
ウサギ男

うわー。辛いねー。(笑)でもそうかも知れない。「作家性なんてことにこだわっているなんて、不思議です。」とか、今の大学生に言われてしまったりして。

でも、さきほどの規格化の問題ですが、私は住宅の場合、やっぱりクライアントの顔が見えていることが、必須なんです。たとえば、街場の中華料理屋とバーミヤンの違い。中華料理屋は、お客の顔を見てから、いちいち材料を炒めて、その人に向けて料理をつくる。これはワンオフ。バーミヤンは工場で作ったレトルトをお湯で温めて出す。ファミレス業態は皆そうです。この違いは大きいと思うのです。材料に含まれている魂というかエネルギーというか、それを良質な「モノ」に変換することを「技術」というのかな?と思ったりするのです最近。僕の好きな中華料理屋にはその要素がある。ぼくもそうなりたいなと。産業の成立要件としての「作家性」記号とは別に、その材料に内在する「魂」を「モノ」に還元する技術。建築家にとってこれがいちばん大事なことなんじゃないかな?それは大工さんや、その他の職人さんの良し悪しも、みんなその観点で判断できるかもしれない。木に内在する「魂」を、しっかりした軸組みという「モノ」にするということが技術でしょ。やっぱりオーラのあることですよね。

建築家B ウサギ女
ウサギ女

「魂」保存の法則みたいなことですか?

建築家A ウサギ男
ウサギ男

そうそう。「魂」保存の法則。むしろ「魂」を保存できる「技術」ですけどね。だから、「技術」という言葉を、再定義した方がいいと思う。ニッポンはモノづくりの国…なんて、ちょっと大雑把すぎるよね。

建築家C ウマ男
ウマ男

表層的なキャッチコピー?

建築家A ウサギ男
ウサギ男

そう思う。で、結局、「編集する建築家」って、そのような「魂」や「エネルギー」を「モノ」に還元する、広い意味での「技術」を持った人ということになるよね。そう解釈することはそんなに無理がないと思うのだけど。

建築家C ウマ男
ウマ男

ウーン。なるほど。おかげでなんか元気が出てきましたよ。すごくよくわかります。ポイントは「魂」保存の法則を有効にする広い意味での「技術」ですね。でも、それって、やっぱりクライアントというか「お客」の顔が見えてないとダメなんですか?「魂」保存の法則が隅々まで働く「規格化」や「量産するシステム」だったらいいんじゃないのかな?ワンオフでなくても。

建築家A ウサギ男
ウサギ男

あー。それって難しい問題ですよね。僕はシステムをそこまで信じられないんです。どうしてもシステム化のプロセスで抜け落ちていくものがあって、それが一番肝心な部分であることが多いのじゃないかと。たとえば、バウハウスは魂の伝達と量産の並立が可能だと考えたわけですよね。それってホントに難しい問題。でも、現実的に考えれば、ある程度の規格化とある程度の量産を前提に、何事も考えざるを得ないのだから、ニヒリズムに陥らないためにはウマ男さんがおっしゃるように、必ずしもワンオフでなくてもいいのかもしれません。

建築家B ウサギ女
ウサギ女

むずかしい話は私にはわからないのですが、最近、ユニクロや家具なんかも、ほんとに安くなって、でもデザインというかカラフルで楽しくなって、私は規格化されることで、生活が楽しく、豊かになることって問題を補って余りあるように思えるんです。だから、魂の伝達が可能な規格化って、要は利用者が楽しく、豊かになればそれでいいんじゃないかと思うんですけど。

建築家C ウマ男
ウマ男

それは確かにそうなんだけど、うわっ、また振り出しに戻ってしまった。千日手だ!なかなか答えを断言できない話ですね。でも、日頃、なかなか考える余裕もないモヤモヤした問題意識を、ある程度明確に言葉にすることができました。

事務局
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なかなか、おもしろいテーマが抽出できました。ありがとうございます。

今回のプロポーザルコンペをめぐるアウトラインの時代状況が、結果的にあぶりだしになったような気がします。今後とも、この議論を深めていきたいとかんがえておりますので、是非第二弾をやりましょう。本日はありがとうございました。



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